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生い立ち


私は岐阜県で生まれ、岐阜県で育ちました。

2才年上の姉と2才年下の弟の3人兄弟の真ん中です。

家族構成は祖父、祖母、母親、父親、姉、弟の7人家族で一軒家で暮らしていまいた。


幼児編


生まれて間もない頃は各務原市のあたりに住んでいましたが、3才になると父親の実家に戻ってきました。

恐らく弟が生まれたタイミングでしょう。

各務原に住んでいた時の記憶は全くありません。


3才から保育園に通い始め、多くの友達ができました。中でも一番仲の良かった友達は い〜たかちゃん (※男の子)です。


小学生になったら一緒にサッカーをしようと約束していました。
サッカーばかりやっていたので当然、私の将来の夢はサッカー選手でした。


ドッジボールもよくやっていましたが、投げたり捕ったりするのが得意ではなく逃げ回っていて、よく最後まで残って喜んでいました。

今考えればドッジボールが下手な人の典型ですね。


スキップができず居残りで先生と特訓した覚えもあります。

縄跳びは好きでよく駆け足とびで走り回っていました。

幼児期の私はバットを持ったこともグローブをはめたこともなくボールすら触った記憶がありませんでした。




小学生編


私は身長がかなり小さく小学校に入学した段階で1メートルもありませんでした。

よく隣に並んでいる市バスのタイヤより小さいと喜んでいました。大型バスのタイヤサイズは1.063m なので記憶は正しいですね。

身長も小さく成長が遅かったこともあって、運動は好きだけど他の子よりできないことが多かったです。

成長ホルモン分泌不全性低身長症


小学3年生になると身長の小さな親が病院に連れて行ってくれました。

私はなぜ連れて行かれたのかはわかっていません。

病院の先生の話を聞いてわかりました。


成長ホルモンの分泌が少なく、身長が伸びにくくなっていること。


身長の低さは気にしていませんでした。年齢が上がれば大きくなると思っていました。

自分も父親くらいの身長になれると思っていました。

しかし、病院の先生からこのままでは大きくなれないことを知らされました。

身長を伸ばすためには成長ホルモンを毎日自分で注射しなければいけません。


そう、

毎日です。


自分の現状を知らされた私は、迷うことなく治療を行うことにしました。

これから6年間の注射生活の始まりです。

成長ホルモン分泌不全性低身長症については長くなるので別の記事でご紹介しましょう。


野球生活の始まり


私が住んでいる地域のスポ少は当時は4年生から入ることができます。(現在は2年生から)


小学4年生になると親に連れられて少年野球の体験に参加しました。


初めてのノックで上手に取ることができ、褒められたことを今でも覚えています


このノックがきっかけでサッカーのことなんて忘れて野球をやろうと思いました。


「い〜たかちゃん、約束破ってごめんなさい」


この時から守備はずっと好きでした、なかなか打てなかったのでバッティングは好きではありませんでした。


小学生の頃の私は横着でよく怒られていました。家でもグラウンドでも。

家では勉強をせず、ゲームばかりで、寝る時間を削ってゲームをしていました。

グランドでも言うことを聞かない、人の邪魔をする、自分勝手な行動をする。


典型的な主体性のない人ですね。


4年生で入団した時から同級生の父親が監督となり卒団する6年生まで見てもらいました。

この監督は昔ながらの熱血監督で、日本代表の監督も努めた星野監督を尊敬しているような人でした。

入団したばかりの4年生の頃はソフトボールの試合やハンドベースボール、三角ベースなどゲームを多くやっていたのでとても楽しかったです。

やっぱり試合は楽しいですね。


劣等感を感じる日々



5年生になると4年生2才年下の弟が特別に3年生で入団してきました。


素晴らしく優秀な弟です。


2才年上の私達と一緒に練習や試合をしていました。

私が6年生になる頃に弟は、6年生チームでピッチャー、キャッチャー、ショートを守り、打っては3番を打っていました。


身長も大きく、私が4年生の時点で抜かれました。


勉強もできます。

家に帰ってくると夕飯の前には宿題を終わらせています。

なにをしても優秀でした。

そんな弟といつも比較されていました。

家族からも比較され、野球をしても比較され、どこに行っても背の小さな私を見て「弟さん?」と言われてきました。(今でも言われますが、、、)


挑戦できる学校生活


学校でもよく怒られていました。

集団で怒られる時には必ずメンバーに入っています

ベランダでコガネムシを虫眼鏡で焼いて教室中を焦げ臭くして怒られたのは今でもよく覚えています。


そんな悪ガキの私ですが、4年生で班長に挑戦しました。


初めて立候補する時は落ちたらどうしようという不安でいっぱいでしたが、どこかで聞いた「駄目で元々」という言葉を思い出し、自分に言い聞かせて立候補しました。

見事当選し、班長生活が始まりました。


班員をまとめることの楽しさ、クラスに参加する面白さを感じました。

この感覚が楽しくて、中学を卒業するまで6年間続けました。
(班決めに参加できるので、好きな子と同じ班になれるという不純な理由もあります)

6年生になると応援団にも挑戦したり、自信のない自分ですが、様々なことに挑戦していました。


野球の楽しさ


6年生になる頃には公式戦が多くなり、練習も厳しくなっていきました。


グラウンドでは練習でエラーをするだけで監督に怒られ、試合でエラーをした時には相手の目も気にせず怒鳴り散らされました。(隣りにいたコーチの父親にもメガホンを使って)


6年生になる頃には野球の楽しさが半減していました。
それでも野球は好きです。

この頃からこんな親にはなりたくないと決意していました。

親が言う言葉を覚えて、これを言うと子供は傷つから自分の子供には言わないようにしようと思っていました。


そして、気づけば親の言うことを聞かず反抗ばかりしていました。




中学生編


中学では何も考えず野球部に入部しました。

また、思春期を迎え、親から自立できるように様々なことに挑戦するようになりました。


学校生活で精一杯の1年生


学校生活では相変わらず班長を続けていまいた。

中学校では思春期で個性もそれぞれだし、勉強も難しくなり生徒の学力差が大きくなっていたので班員の取り扱いは大変でしたが、やりがいがあります。

班を代表して発表する機会も多く、人前で話すことにも慣れてきました。

部活では先輩がいる中で行うのは初めての経験で上下関係を優しく教えてもらいました。
(実際は、先輩を君付けで呼ぶほどの仲)

3年生の先輩が10人以上いたので試合に出場する機会は殆ど有りませんでしたが、積極的にスコアラーを行っていたので、今でもスコアを書くことができます。


1年生の時の担任は理科担当で20歳代の横山先生です。

横山先生は担任で野球部の監督でした。

横山先生は野球経験が中学までしかありません。(高校はテニス部)

なので、野球を教えてもらった記憶がないです。

たまに来るOBの高校生に教えてもらったことのほうが記憶に残っているし、今でも大切にしていることが多いです。

中学で一番感謝しているのは学年主任の米田先生(女性)です。

私は字が下手でめんどくさいことが嫌いだったので、毎日書く日記のようなものを適当に書いていました。

それを見かねた米田先生が、私と同じような人を数人集めて米田塾を開講しました。

米田塾では毎日の記録を合格 (きれいな字・中身のある内容・欄を埋める・漢字を使う) するまで何度も再提出させられました。

最初は嫌々やっていまいたが、それでは合格出来ません。

わからない漢字は調べ、内容もよく考え、丁寧に書いて合格できるようになりました。

この時にわからないことは調べる習慣が身につきました


不信感を抱く2年生


2年生になると監督が変わりました。

監督は数学担当の森先生(40代)。

森先生はとても面白い授業をするので好きな先生でした。

しかし、野球の指導ではどうも納得できないことが多く不信感を抱いていました。

丁寧に教えてくれるのですが、根拠がなかったり、間違っていたりすることが多かったです。

例えば、ショートバウンドはグローブを引いて捕れと教わっていました。
しかし、ある日、野球部のコーチが県大会優勝チームの偵察に行ったときにショートバウンドはグローブを前に出して捕れと言っていたから、うちもそうしようと言ってきました。

その時は、「へ〜そうなんだ」と納得しましたが、そんなことが何度かあって次第に不信感が強くなり、


「この人は野球を知らないんだ」


と思いました。


野球指導に感動した3年生


3年生になり監督が長野先生(当時44歳)に変わりました。

長野先生は長年、中学野球を教えている人で、先生自身も高校野球までしていたようです。

昔ながらの厳しい先生ですが、人情味があって尊敬のできる先生です。


長野先生に出会い、本当の指導を受けて感動した記憶があります。


まず最初に言われたのは「お前は右では打てない、左に変えろ!」でした。

打てないことを見透かされ2年生まで2番バッターだった私は、3年生で9番バッターにされてしまいました。

9番バッターにされましたが、なんとなく納得している自分がいました。

打てない理由がわかっていたからです。


その時から高校で左打ちができるよう練習しましたが、努力不足と実践で挑戦できなかったため、結局は左打ちはできませんでした。

左打ちを練習すると同時に、右で打てる方法を考えていました。


中学の時はセカンド、ショートを守っていたので野球の試合に多く関わることができ、勉強になりました。

主体性のない私は家で練習をほとんどしていませんでした

家でバットを振っているか聞かれたときも「振っています」と嘘をついているような人でした。

仲間がいるし野球が好きなのでやっているだけで、野球の本当の楽しさはわかりませんでした。

中学に入ると反抗期を迎え、親の干渉が少なくなったので、少しずつ主体性を取り戻しつつありました。

勉強を自主的にやろうとは思っていませんでしたが、高校に行くために内申を上げようとテスト前だけは勉強していました。

全体の成績は中の上くらいですが、理科と数学が得意でクラストップの子たちと張り合っていました。

自分の成長を感じ、出来なかったことが出来るようになる喜びを知り、挑戦する楽しさを覚えました。

積極的に生徒会活動に参加するようになったりしていました。


小学校でたくさん怒られていた自分が嘘のようです。


高校生編

父親も高校野球をやっていたので、なんとなく高校まで野球をやるんだろうなと思っていたので、迷いもなく野球部に入部しました。

高校は進学校で文武両道を掲げているので部活は短く、厳しくはありませんでしたが、監督を恐れてやっていました。

監督は県No.1の高校で甲子園の出場があり、大学も東都大学野球に所属していた素晴らしい経歴を持っています。

完全に監督にビビってなにもできていませんでした

この時も家でバットを振ることはなく、どうやって打ったら飛ぶのかとか、どう捕れば良いのかを少ししか考えていませんでした。

今の方が考えています。

守備は好きでうまくできていましたが、結局何も考えずにできていたので、チームメイトの鼻に、ボールが当たって骨折した事件をきっかけに怖くなってしまい、うまくできなくなりました。

それから、ボールの取り方だったり、ボールまでの入り方を勉強するようになりました。

入部したての友人たちは必ず何かを意識して練習しているのを見て、自分とは違うと感じていました。

今思うと、これが主体性なんだと思います。

私は言われたことをやっているだけ、友人は言われたことをやりながら、自分の悪いところを直していこうと思って練習しています。

これが大きな差となってくるでしょう。

自分のレベルを上げることができず、後輩にも抜かれ、最後の夏の大会は三塁ランナーコーチをしていました。

もっと練習しておけばよかったと思いますが、練習しようと思えなかったことが良くないことだと思います。

これも主体性の無さです。


大学生編

高校でレギュラーではなかったのと、なんとなく高校までと思っていたので、大学で野球をやるつもりはありませんでした。また、私が入学した大学には準硬野球部しかなかったので、野球部には入りませんでした。

中学の頃から興味を持っていたギターを弾きたくて軽音楽部に入りました

サークルの仲間は多趣味なので、遊びで野球する企画をしたり、草野球に所属したりして野球はやっていました。

遊びの野球をやると、冷静に考えられるようになり、あの時はこうすればよかったと高校時代を後悔するようになります。

もっと自分が何をしたら良いのか気付けていれば違っていたのではないかと思うようになり、同じ境遇の子供たちを増やしたくないという思いから野球の指導をしたいと思うようになりました

大学では一人暮らしだったので、自分で掃除・炊事・洗濯など全てをやらなければならず、主体性が身についたと同時に考えることの大切さを感じました


社会人編

社会人2年目の夏頃に少年野球の時の監督に「少年野球を見てくれないか」と言われ、行ける時にコーチをしに行っていました。

元々、指導願望があったのと、やってみて楽しかったので、毎週土日行くようになっていました。

指導していた子たちが卒団して次の年に背番号28をもらいコーチとしてベンチに入れてもらうことが出来ました。

練習も任され、練習メニューをほとんど私が決めるようになりました。

この頃から子どもたちに間違った指導は出来ないと思い、野球の理論を勉強しました。

また、子どもとどのように接すれば良いのか、どうすれば話を聞いてくれるようになるのかも考え、アドラーの心理学やコーチング、ボトムアップ理論やメンタルトレーニングなども取り入れるようにしました。

そして、ある感情が芽生えました。

”コーチは監督の方針に従うしかない、それでは自分のやりたい指導ができない”

”監督になって私の理想の指導をしたい!”

少しずつ監督願望が強くなっていきました。

3年間のコーチを終え、新チーム結成時の誰がどの監督・コーチをやるのかを話し合う場に私は出席出来ませんでしたが、「今まで見てきた新6年監督チームの監督をしたい、出来なければ新4年生チームの監督をしたい」と伝えました。

恐らく、元々の監督も最後まで見届けたいという思いがあったと思いますし、新4年生の子に監督をやってほしいと言われたこともあって、私は新4年生チームの監督に任命されました。

監督として最初に取り組んだのは環境の改善でした。

”環境が子どもを育てる”と思い、親さん達に教育理論の話を多くしましたが、間違って捉えられたり、聞く耳を持たなかったりしてうまくいきませんでした。

それから、”大人を変えるのは難しい、子どもに影響を与えていこう”と決心しました。

「子ども達には自分のことは全て自分でやるように、親さんは手伝わないように」を徹底しました。

子ども達の育成はうまく出来ました、しかし、親さん達の支持を得ることが出来ませんでした。

社会人になってから2度の転職の後、子どもの教育に関わる仕事がしたいと思い、体操教室でアルバイトをはじめました。

毎日、保育園や幼稚園が終わった後の遊戯室を利用して器械体操や運動を教えています。

それだけでは生活できないので新聞配達と居酒屋を掛け持ちでアルバイトをしています。

そして、現在は最初に監督として見始めた4年生達は卒団し、新しいチームを見ています。

これからも指導の勉強を続けていくことと、親さん達への対応が課題なので、日々努力を続けていきたいくので、学んだこと経験したことをこのブログで皆さんに紹介していきます。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ブログの方も是非御覧ください。

番外編 〜弟の話〜


2つ歳下の弟は元プロ野球選手です。

弟は小学3年生から野球を始め、どんどん上手になり、私が小学6年生の時には一緒に6年生の大会に出てピッチャー、キャッチャーをしていました。

4年生の時に高木守道さん(故)にも「あの子いいね」と言われ、直接指導を受けていました。

常に弟と比較されて生きてきたので、劣等感がすごくありました。

反対に弟は兄に比較されて褒められてきたので自尊心が身に付き、どんどん成長していきました。

毎日夕食の前には勉強を終わらせていましたし、夜9時には寝ていました

少年野球では4番ピッチャー、中学では硬式リーグに入り4番ピッチャー、高校では甲子園常連校で2年までエースで4番、肩を壊して3年から外野手で4番でした。

兄弟であり、同じ家庭で育っているにも関わらず、どうしてそんなに差がついたのかと考えるようになりました。

これが、育った環境や家族構成による影響です。



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